数か月に及ぶ旅の末、ようやく最初の調査対象である神殿に辿り着いた。
神殿は深山の森の中に位置している……と言っても、今や森とは名ばかりで、そこに立ち並ぶのは枯れ果てた木々ばかりだった。
山に足を踏み入れた瞬間から、奥へ進めば進むほど、周囲の生命力が何者かに蝕まれている感覚が強まっていく。
私自身も同様に、何かが私の生命力を奪おうとしているのを感じる。だが、人間ではなく人形である私には「有限の命」という概念が存在しないため、特に影響はなかった。
——もっとも、誰かにずっと肩を叩かれたり、つつかれたりしているようなものだ。長く続けば、さすがに苛立ってくる。
神殿の外壁にたどり着くと、周囲には枯れ木だけでなく、地面の草花さえも完全に枯れ果てていた。
この様子を見れば、村人たちが私を止めようとした理由も納得できる。
普通の人間がこの山に入れば、神殿に辿り着く前に、生命力を吸い尽くされて倒れてしまうか、途中で引き返すことになるだろう。
この異様な現象を見る限り、この神殿に存在する魔法は、私が探しているものとは異なる可能性が高い。
だが、ここまで来た以上、中を調査してみる価値はある。 この山の生命力を蝕んでいる存在が何なのか、それ自体にも興味が湧いてきた。
そう考えながら、私は神殿の大扉を押し開け、中へと足を踏み入れた。
「……」
「どうやら、この神殿に巣くう存在は、私の来訪を歓迎していないようだな」
扉をわずかに開いただけで、殺気が一気に押し寄せてきた。さらに、生命力を吸い取る力も一気に強まった。
その瞬間、外に立ち並んでいた枯れ木や地面の草花は、灰となって空気中に舞い散った。
通常、神殿が放棄されたり閉鎖されたりする場合、その時代の司祭が封印処理を施し、神殿内の力が外部に漏れ出さないようにするのが常である。
だが、この神殿にはそのような封印の痕跡が一切見られない。 何か異常事態が起こり、封印する暇もなく、このまま放置されたのだろうか?
そんなことを考えながら、神殿の回廊へと足を踏み入れた私の目に飛び込んできた光景が、その疑問に答えを与えた。
広大な回廊の床、壁、天井には至るところに血痕が残されており、所々には時間の経過を感じさせる無数の白骨が横たわっていた。
あちこちに刻まれた剣の痕や破壊の跡が、かつてここで激しい戦闘があったことを物語っている。
――――――――――――――――
今回訪れることになった神殿について、私が把握しているのは、その位置情報のみ。
その神殿の歴史や過去に関する資料は一切見つけることができなかった。
誰かが意図的に歴史を抹消したのか、それとも遥か古代の存在であり、文献や記録が時の流れと共に失われてしまったのか……。
「……先に進むしかないか」
いくら考えても答えは出ない。真相を知りたければ、前へ進むしかない。
もしかしたら、神殿の奥に書庫が残っているかもしれない。そこに記録があれば、何かが分かるかもしれない。
正直なところ、神殿
の奥から絶えず放たれている殺気の正体にも興味がある。
「できることなら、この山を蝕む問題を解決したい。 このままでは、麓の村にもいつか被害が及ぶかもしれないからな」
そう心に決め、私は神殿の奥深くへと歩を進めた。
殺気の発生源をたどれば、すぐにでもその正体に辿り着けるだろう。
だが今は、それよりもこの神殿に関する情報——例えば古文書や記録——を先に探りたい。
この神殿がいつ建てられたのかは分からないが、既存の神殿の多くは千年以上前から日誌を残す習慣がある。
それが古代より受け継がれてきた伝統であるならば、この神殿にも同様の記録が残されている可能性は高い。
しかし神殿の内部構造は広大かつ複雑であり、通路や区画は入り組んでいる。
もしも無作為に探し回るだけなら、目当ての情報を見つけるまでに二、三日はおろか、数週間かかることもあり得るだろう。
理論的には、魔力を持つ者であれば、自身の魔力を一本の線として外部に伸ばし、分岐点で枝分かれさせることで、空間の探索を効率化することが可能だ。
……とはいえ、それはあくまで理論上の話であり、大半の魔法使いにとっては実現不可能な手法である。
この探索法には膨大な魔力を要するため、多くの者は透視魔法など、別の手段に頼るのが常だ。
だが、ほぼ無限に等しい魔力を有する私にとっては、何ら問題にはならない。
私は目を閉じ、魔力を複数の線に凝縮し、それを周囲に向けて放っていく。
しばらく探索を続けた結果、いくつかの異常な反応を捉えた。
中には結界と思われる封印、また古の魔力が微かに残る痕跡もあった。
明らかな手がかりがない空間よりも、まずはこれらの異常を優先して調査することにした。
しかし、広大な神殿の中で感知できたのは、わずかに二箇所だけだった。
―――――
私は最初の異常地点に到着した。
そこには巨大な扉があり、その表面に複雑な結界が張り巡らされていた。
……想像以上に精緻な構造だ。私の知る範囲では見たこともない符文が、無数に組み合わさっている。
それらが連鎖することで、極めて高度かつ強固な結界を形成していた。
さらに驚くべきは、この結界が数万年という歳月の中で一切崩壊していないという点だ。
魔力の消耗も見られず、誰の手による維持もないはずなのに、まるで昨日設置されたばかりのように完璧なままだ。
私は結界に手を触れ、魔力を流し込むことで構造と符文の効果を解析していく。
しばしの分析の末、ある程度の構造が把握できた。
初めて目にする符文もあったが、経験によりその機能は概ね予測できる。
解析が済んだところで、私は結界の解除作業に取りかかった。
一つ、二つ、三つ……。
……違和感。
この結界、ただの封印ではない。
まるで意思を持つかのように、解除した箇所がすぐに再生されていく。
「……この結界を張った者、魔術の才は並ではないな」
現代において“天才”と称される魔法使いたちが創り出す結界と比べても、遜色ない。
自動修復機能を持つ結界など、私の長い旅路の中でも三度しか遭遇していない。
解除速度が修復速度に追いつかない今、無理に解析を続ける意味はない。
となれば、残された選択肢はただ一つ——強制的に破壊することだ。
だが、それには大きなリスクが伴う。
いかに構造を把握していても、結界の中に未知の防衛機構が隠されている可能性は拭えない。
強引に破壊を試みた結果、転移装置が発動するかもしれないし、結界を守る守護者が召喚される危険すらある。
それでも……今は他に道がない。
防衛機構が完全に作動する前に、こちらが破壊しきるしかない。
そして、最も恐れるべきは——「魔力反響」だ。
結界破壊時、魔力が逆流すれば、その衝撃を受け止めるのは私自身。
場合によっては破壊が中途半端に終わるばかりか、私の身体に深刻な損傷が残る可能性もある。
……考え込むのはやめた。
私は目を閉じ、手のひらに魔力を集中させていく。
圧縮された魔力は球状となり、徐々に膨れ上がる。
ある程度の大きさになったところで、別性質の魔力を纏わせ、一気に眼球ほどのサイズへと凝縮させる。
その小さな魔力球を、私は一気に結界へと押し込んだ。
球体は内部に吸い込まれた瞬間に膨張を始め、符文構造を内側からこじ開けていく。
結界の中心から無数の亀裂が走り、そこから結界本来の魔力が漏れ出していく。
私の魔力と結界の魔力が干渉し合い、互いを侵食し、呑み込もうとする。
その瞬間——凄まじい衝撃が私を襲った。
「……やはり、魔力反響が起きたか」
二つの魔力が拮抗し、そこに生じた力は爆発となって外部へと噴出していく。
私は即座に防護結界を張り、自身を包み込んだ。
だが目の前で、それらの結界は次々と破壊されていく。
想定を遥かに超える衝撃に、私は防御を張り直し続けるしかなかった。
約一分後——結界は完全に破壊された。
だが私の身体にも細かな亀裂が走り、魔力回路には不安定な波動が生じている。
痛覚こそないが、これは明確な「損傷」だ。
それでも——結界は、突破した。
私は顔を上げ、ついに開かれた扉の奥を見据える。
「この扉の向こうには……一体どんな過去が隠されているのか?」
扉を押し開いた瞬間、私の目に飛び込んできた光景は——
そこは、人間を使った実験が行われていた“部屋”だった。
……いや、ただの人体実験ではない。
扉を開けた途端、空間に漂う魔力が意識に染み入り、まるで意志を持つかのように私の内側へと侵食してくる。
そこには、怒り・絶望・苦痛といった、凄まじいまでの負の感情が渦巻いていた。
そして、暗闇の中から誰かに鋭く見据えられているような錯覚——いや、もはや確信があった。
ここで……何があったのか?
先ほど感じた殺気、そしてこの神殿が周囲から生命力を吸い上げているという異常現象。
それらは本当に無関係なのか?
真実を知るために——私は一つ深呼吸し、その部屋へと足を踏み入れた。
目の前に広がっていたのは、まるで鮮血に染まったかのような空間だった。辺りには濃厚な血の匂いが立ち込め、鼻を突き刺すようで、思わず吐き気を催すほどだった。
まだ状況を把握しきれないうちに、耳をつんざくような悲鳴がいくつも響き渡った。ほんの一瞬、まばたきしただけで、さっきまで何もなかった実験室に、「人のような何か」が無数に現れた。
それらは、黒と深紅の線が複雑に絡み合って構成された、混沌で不気味な存在だった。
何かしようとしたその時、体が縛られたかのように動けなくなり、その場に立ち尽くすことしかできなかった。目の前では、非人道的な実験が次々と行われていた。
……彼らは、この場所でかつて起きた出来事を、私に見せていた。
過去の光景が現れる時間が長くなるにつれて、この空間に漂う怨念や絶望、苦痛の感情がますます強くなっていく。
その感情の圧力はまるで喉元を締めつけるようで、息ができなくなりそうだった。
苦しさに喘いでいたその時、
ひとりの「人」が私の方へ歩いてきて、最後には目の前に立った。
「それ」は無表情だった。いや、正確には顔というものが存在せず、ただ雑多な線が交差しながら奥深い闇を形作っていた。
その瞬間、先ほどまで存在していた人々も、あの悲鳴も、すべてが消えていた。
周囲は異様なまでに静まり返り、その静けさは恐怖すら感じさせるものだった。
今、目の前には「それ」だけが残っていた。
私はすぐに気づいた。「それ」は、さっき見た過去の人々の魂の集合体だったのだと。
「それ」は何も語らず、何の動きも見せず、ただ黙って私の前に立ち尽くしていた。
「それ」は、私に何かを伝えたがっているのか──?
私が行動を起こそうとした瞬間、「それ」は突然私の方へ歩み寄り、私の身体を通り抜けて、魂に触れた。
その一瞬で、魂が激しく揺さぶられるような衝撃と痛みが走った。それはこれまで感じたことのないような苦痛で、少しでも気を緩めれば意識を失ってしまいそうなほどだった。
続いて、無数の映像が私の脳裏に流れ込んできた。それは、この場所で非人道的な実験を受けた人々の、記憶と感情の断片だった。
激しい頭痛に襲われ、私は頭を抱えて地に膝をつき、苦しみのあまり叫び声を上げた。まるで、彼らが過去に受けたすべての苦しみを、今まさに私が体験しているかのようだった。
肉体を切り裂かれる痛み、正体不明の薬剤を強制的に投与されたあとの副作用、成功まであと一歩のところで失敗し、自分の命が徐々に消えていくのを感じる絶望……
それらの痛みに苛まれながら、私の意識は次第に霞んでいった。
助けたい……彼らを助けたい……でも、今の私には何もできない。
一体どれほどの苦しみを耐え抜いたら、君たちの魂は何万年もの間、未だにこの場所を彷徨い続けることになるのだろう。
一体どれほど魂が壊れ、どれほどの絶望に染まったら、君たちはひとつになって「それ」を作り上げ、こうして存在し続けようとしたのだろう?
──「目を覚まして!」
意識が途切れそうになったその瞬間、脳内に響いたのは、あの懐かしくて優しい声──優熙の声だった!
あれは幻聴だったのか……そう思った瞬間、私の「心」がまるで自らの意志で輝き出した。柔らかな光がそこから放たれ、魂のひび割れた一片一片を優しく照らしていく。
次の瞬間、「バンッ」という音が空間中に反響し、「それ」は実験室の彼方へと吹き飛ばされた。
気づけば、あの血の匂いと深紅に満ちた空間はすっかり消え去り、目の前には普通の実験室と「それ」だけが残っていた。
「……」
「また君に救われたな」
落ち着いてから、私は確信した。あの声は幻ではなかった。あれは、優熙が私を守るために、私の魂に宿してくれていた力だったのだ。
「ありがとう。」
そう呟きながら、私は大きく息を吸い、そして一歩を踏み出した──
吹き飛ばされた「それ」のもとへと向かって。
私は「それ」の様子をじっくりと観察した。もし可能なら、私は「それ」を解放してあげたいと願っていた。
まず、私は結界を張って「それ」の動きを封じ、分析を開始した。しかし、その結果は楽観できるものではなかった。
「それ」は、数百、いや数千にも及ぶバラバラな魂の集合体だった。生き延びるために、これらの魂は互いに依存し合い、憎しみを原動力として、この地に数万年も存在し続けてきたのだ。
だからこそ、先ほど「それ」が、まだ傷の残る私の魂に触れた時、あれほどの苦しみを感じたのだろう。魂のひび割れから、彼らの怨念が私の中に入り込み、彼らの痛みを身をもって体感させられたのだ。
「……君たちの魂を一つ一つ修復することは、私にはできない。それは、君たち自身もわかっているはずだ……」
長い沈黙の後、私は続けた。
「だけど、もうこれ以上、痛みに耐え続ける必要はない。過去の苦しみを背負わずに済むよう、君たちを永遠に解き放つことはできる。」
「どうだろう?」
私の問いかけに、「それ」はまるで理解したかのように、私の目の前に静かに腰を下ろした。それは、提案を受け入れたという意思表示だった。
「それじゃあ……始めるよ。大丈夫……すぐに、本当の意味で楽になれるから。」
私は魂の断片を一つ一つ切り離していった。互いに干渉し合わないように、たとえ欠片でしかなくても、最後には皆がそれぞれの個として救われることを願いながら。
どれほどの時間が経ったのだろうか──
ついに、最後の魂の欠片を分離し終えた。
結界の中には、淡く光る小さな光の玉が無数に漂っていた。それぞれが一つの魂の断片を象徴していた。
次に、私は一連の浄化の魔法を施し、それらの魂を最も純粋な状態へと戻していった。
浄化が終わると、かつて淡くくすんでいた小さな光の玉たちは、今や眩しく、そして澄み切った光を放っていた。
「これで少しは楽になったかな……最後の段階に進む前に、せめてもう一度、あたたかさを感じてくれたら嬉しい。」
そう言って、私はそれらの魂に幻術を施した。
たとえ未完成なままであっても、最後の瞬間に少しでも安らぎと温もりを感じてほしかった。
……彼らは幻の中で何を見ているのだろうか?
私はあまり深くは考えず、ポケットから小さな瓶を取り出した。中には繊細な粉末が入っていた──それは「生命の樹の祝福」。
私はこの粉末の力で、彼らの魂を安らぎの地へと送り出したいと思った。
粉末を撒き、対応する魔法を唱えると、結界内の空間が優しく輝き出した。
それはとても柔らかく、温かい光であり、一つ一つの光の玉を包み込むように広がっていった。
その光はゆっくりと魂に溶け込みながら、祝福を与えていった。
やがて、小さな光の玉たちは、まるで夜空に浮かぶ星のように、静かに浮遊し始めた。
そして、その輝きが次第に消えていくにつれ、魂の断片たちは、静かに、静かに、この結界から姿を消していった。
私はその光景を見つめながら、目を閉じて祈った。
「安息の地へ還った彼らが、どうかあちらの世界で、新たな命を得られますように──」